彼がレジェンドサーファーと呼ばれる理由。「MaboRoyal」小室正則さん


サーフィンを始めて52年、日本のサーフィンの歴史とともに歩んできたレジェンドサーファー、マーボーこと小室正則さん。


70歳を目前としたいまでも現役のプロサーファーとして活躍する彼を突き動かしてきたものとは一体、何なのでしょうか?


すべてのサーファー、マリンスポーツ、ビーチライフを愛する人々必見のインタビューです。



17歳、ナンパ中に見とれたサーファーがすべての始まりだった

サーフボード職人としても活躍。自らのボードの性能を力説

 出典  Funmee!!編集部


—— サーフィンを始めて50年以上経つ小室さんですが、そもそも波乗りを始めたきっかけは何だったのでしょう

か?

 

高校生でサーフィンを始めたんだけど、それまでは毎日、湘南の鵠沼海岸でナンパしてたわけ(笑)。そうしたらある夏の日、カッコいいアメリカ人がサーフボードを小脇に抱えて海に現れたんだ。

 


―― 初めて見るサーファーだった?


そう。サーフィンを目の当たりにして、ナンパどころでなくなって、3時間くらい眺めてたんだよ。海から上がってきたところで、片言の英語で話しかけて、ボードを貸してもらった。

 

それで沖へ行って、ボードを返してパッと立ったら、「こんな面白いものがあるのか!」とズキーンときた。これで人生が変わったね。

 


—— まさに、運命の出会いだったんですね。

 

そうだね。実家が辻堂で焼き鳥屋をやっていたから、そのサーファーを連れて行ってご馳走をしてやったんだ。で、「その板を置いて行け。俺の自宅だから心配するな。預かるから」って(笑)。で、次の日の朝から、サーフボードを抱えて海へ通うことになったんだ。

 


—— その日から、小室さんのサーファー人生が始まった。

 

朝、学校に行って、先生から「小室君」と呼ばれて「はい!」って返事したら、もう弁当を持ってビーチ(笑)。50年も前だから、そんなことが許された時代だよ。それが青春だった。

 


——1年半後には、全日本ジュニア選手権で日本一に。才能があったんですね。

 

もう毎日海へ通ったから。今店を構えている通りは、本来は「昭和通り」という名前なんだ。だけど、そのうちに「カッパ通り」と呼ばれるようになった。

 


―― その由来は何なんですか?


毎日、俺がウエットスーツを着て、頭にはタオル、その上にサーフボードという姿で、自転車に乗って波乗りに行っていたから。その姿が、カッパに似ていたから、近所の人達がそう呼ぶようになった(笑)



オープン当時のサーフショップ。湘南でも先駆けだった

 提供 小室正則さん


—— なんと、道の名前に! ショップを開いたのも早かったんですよね。

 

19歳で、自分のサーフショップを辻堂にオープンした。で、俺は「カッパ通り」を「サーファー通り」と呼ぶようになった。今ではサーフショップも増えて、みんな愛着を持っている名前だよ。



九死に一生を得て、「生」について学んだ2つのこと

いつまでも変わらないサーフスタイル

 提供 小室正則さん


—— サーファー人生のスタート、順風満帆ですね。


いや、怖い思いもしたよ。サーフィンを始めて1週間後にさ、台風が来ちゃった。地元の辻堂だったんだけど、ビーチに女の子達がいて、カッコいいところを見せようと思って沖に出ていったら、500メートルぐらい流されて。箱根の山みたいな波がくるわけ。

 


—— それは恐ろしい……。


「ヤバイな」と、怖くて息苦しくなって、唇が震えてきてさ。それで一か八か乗ったら、どうにかヨタヨタと岸まで乗ってこれた。そこでやめればよかったんだけど、もう1回、沖に行っちゃったわけ。


 

—— 怖いもの知らずですね。


で、バーッと波に巻かれてさ。海の底にピタッと着いて、パッと目を開けたら真っ暗。光が通ってこないんだから、水深15メートル以上。その時、「お母さーん、お母さーん、お母さーん」って、3回ぐらい叫んだんだ。

 


―― 切実です。


もう息が苦しいんだけど、叫んだおかげで水を飲んで、残りの空気が肺に入った。それで海面まで漕いでいった。唇を出してスッと息を吸ってた。パッと沖を見たら、波がなかった。波が来てたら、俺は即死だったよ。


 

—— 生死ギリギリだったと。


そうだね。その後、波に何回か巻かれているうちに、どんどん岸側に戻ってこれた。そして、地べたにピタッと足が着いた瞬間に倒れたんだ。

17歳の夏に俺は、2つ学んだんだ。死ぬ怖さと、冷静になればなかなか死なないこと。それから俺は好青年になっちゃった(笑)。



「日本へ帰れ!」から、ハワイの名誉市民に

ノースショア、ハレイワにて。地元の盟友とともに

 提供 小室正則さん


—— 現在、サーフィンの聖地ハワイには、日本から数多くのサーファーが訪れていますが、そのきっかけとなったのが小室さんだそうですね。

 

全日本のチャンピオンにもなったし、自分の店もオープンした。となると、やはり、憧れのハワイに行きたい。それでサーファー仲間を引き連れて訪れたんだ。日本のサーファーでは先駆けだよ。

 


―― 初めてのハワイはいかがでしたか?


マンゴー・ガーデニアのいい香り、ハワイアン音楽、もちろん波も最高、ハワイの魅力にすっかり虜になった。だけど、海に入るとハワイアンのサーファーから、「日本へ帰れ!」と怒鳴られる。ワイキキ、マカハ、ノースショアどこでもそうだった。


 

—— ハワイに限らず、サーフィンの世界ではローカリズムがあるそうですね。地元のサーファーが波を大切にするために、ビジターのサーファーに対して保守的という。

 

そうそう。その時、俺は「ヤバイな」と思った。それで友好のためにハワイでサーフィンの大会を開こうと考えて、現地の新聞社に頼んで回った。するとその記事を読んだたくさんの日系のハワイアンから新聞社に電話があったんだ。


 

―― どのような?


「ぜひ応援したい。スポンサーになりたい」ってね。それから、ハワイで日米親善サーフィン大会を主催したんだ。


 

—— 正式な大会ということであれば、問題はないですからね。


そして、第1回から6回まではマカハで、続いてノースショアのハレイワで開催した。収益は全部自治体に寄付した。その時の大会の垂れ幕に、日の丸に"Mabo Goodwill Surfing Tournament"(マーボー親善サーフィン・トーナメント)という文字があって。涙が出そうになったよ。


 

―― それはとても感動的ですね! 今では現地の多くの人から小室さんはリスペクトされています。


10年目にハワイから名誉市民賞(タウンアンドカントリー賞)をいただいた。うれしかったね。結局、大会は23年間も続いたんだ。もう、日本のサーファーが国へ帰れ! なんて言われることもなくなったよ。




■プロフィール

小室正則さん

 

神奈川県藤沢市出身。1948年生まれ。プロサーファー、シェイパー(サーフボード職人)、老舗サーフショップ『MaboRoyal』のオーナーとして、長年活躍するサーフィン界のレジェンド。1967年、全日本ジュニア選手権にて2回優勝。サーフィンの神様ジェリー・ロペスとめぐり会い、あの稲妻マーク『ライトニングボルト』を日本に導入し、一世を風靡する。1992年、JPSA(日本サーフィン連盟)にロングボード部門を設立し、初代理事長に就任。現在のロングードサーフィンの人気を築いた。

 


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企画・編集協力:枻(エイ)出版社

文:サンオー・プロダクションズ (SAN-O PRODUCTIONS)

インタビュー写真:ペロ (Pero)

ライディング・その他写真:マーボロイヤル提供(MaboRoyal)

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Funmee!!編集部

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