日本で初めてプロサーファーになった男/川井幹雄ストーリー(前編)
サーフィン

日本で初めてプロサーファーになった男/川井幹雄ストーリー(前編)

1960年代に日本人として初めてプロサーファーになり、69歳の現在も毎日、波に乗り続ける川井幹雄さん。サーフィンとの出会いからプロサーファーになるまでの、波乗りにかけた青春を語っていただきました。

東京オリンピック開会式を投げ出して海へ走る

16歳の川井さん。抱えているのがエアマット
 出典  Funmee!!編集部
16歳の川井さん。抱えているのがエアマット

――川井さんは半世紀以上サーフィンを続けていますが、サーフィンとどんな出会い方をしたのでしょう。

 

子どものころは地元・鴨川の海でボディサーフィンをやったり、木でできた洗濯板やエアマットに乗ったりして遊んでいました。中学3年生のある日、ワーゲンのワゴン車の屋根に大きなサーフボードを積んだ外国人たちが来て、サーフィンを始めたんですね。それを見て「やりたい」と思って、彼らのボードを借りて乗ったのが“本物”のサーフィンとの出会いです。彼らは横須賀の米軍基地のネイビーでした。

 

――よくボードを借りられましたね。どうやって話しかけたんですか?

 

「レンタル ミー! レンタル ミー!」。とっさに思いついた英語だったんでしょうね(笑)。

 

――初めてのサーフィンはいかがでした? 上手に乗れましたか?

 

エアマットの上には立てるようになってたのですが、なにせゴムですしフィンもついてないからフラフラするんです。でもボードは重たかったしフィンもついていたので、安定してビーチまで乗ってこられました。

 

――それでハマってしまった。

 

1964年10月10日、土曜日で学校が休みだったからテレビで東京オリンピックの開会式を見てたんです。そうしたら「外国人が来てるぞ〜」って友だちから電話がかかってきたんです。「オリンピックなんか見てる場合じゃない」って、すぐにテレビを切って海に走って行きましたよ。そういうことが何度もあってサーフィンにハマっていきましたね。

 

――サーフィンはどこでよくやっていたんですか?

 

いまはもうないんですけど、昔の鴨川漁港の東側に堤防があったんです。堤防を作るときに入れた石や岩が流れ出たんだと思いますが、それが海底で良い地形を作って波形っていました。当時、先端に赤い灯台があって「赤堤」って呼んでいて、とくに夏に良い波が立つのでしょっちゅう行ってました。

 

――「赤堤」は聞いたことがあります。どんな波だったのでしょう。

 

フェースが長くてメローな、きれいな波でした。サイズが上がるとショートボードでも楽しかったですが、どちらかと言えばロングボード向きでした。当時はショートもロングもありませんでしたけど。サーフムービーの『エンドレスサマー』にも出てたくらいですから、外国人の間でも知られていたようです。

〜鴨川から伊豆へ〜 少年・川井幹雄の大冒険

決して69歳には見えない外見とバイタリティ!
 出典  Funmee!!編集部
決して69歳には見えない外見とバイタリティ!

――鴨川以外の海にも行きましたか?

 

県内のリーフポイントにもよく行きました。毎日波があるわけではありませんが、台風のうねりなどでクオリティの高い波が立つんです。最初は電車で行って、原付の免許を取ってからは「スポーツカブ」みたいなバイクで行ってました。

 

――そのスポーツカブで大冒険をしたとか。

 

鴨川から、伊豆の白浜まで一人で行こうと思って。外国の雑誌にバイクにボードのキャリアをくっつけた写真が出ていて、それを自転車屋のオヤジさんに見せたら「作れる」って言うので作ってもらったんです。三輪車のタイヤに鉄のバーを溶接してもらって、それをまたバイクにくっつけてもらいました。

 

――それでさっそく白浜を目指した?

 

まず千葉の山を縦断して、東京湾のフェリーに乗って久里浜(神奈川県横須賀市)に上陸。そこからトコトコと海沿いを走って行ったんです。そうしたら湘南で同じサーファー友だちにバッタリ出会ったんですね。「どうやって来たの?」って聞かれて、キャリアつきの原付を見せて「これ」って言ったら、「えええー?」って驚かれましたね。そりゃ当然です。

 

――何人で行ったんですか?

 

ひとり。だれもそんなのに付き合ってくれる人なんかいないでしょ(笑)。

 

――たしかに。で、白浜へは上手くたどり着けたんですか?

 

途中で三輪車のタイヤが本体から外れて、クルマ屋さんで溶接し直してもらったりしてどうにか旅は続けました。その途中、山の上から海を見たらすごく良い波が立ってて、誰もいないところでサーフィンをしました。そ子らへんまで来て、白浜へ行くには有料道路があって原付は走れないって聞いたもので、「良い波に乗れたから、これでいいか」って伊東温泉に一泊して帰ることにしました。

 

――帰りは無事に?

 

白バイに止められて「長いものを積むときは赤い旗を着けなくちゃダメだぞ」って注意されたり。距離も長かったし重たいものを引っ張ってたんで、結局、途中でバイクのエンジンが壊れちゃって……。

 

――エッ? 帰ってこられなかったんですか?

 

千葉に渡る前だったか、渡った後だったか、近くまで戻ってきてたのか、そこらへんの記憶は定かではないんですが、とにかく体は家まで帰ってこられましたね。ボードは戻ってきてるはずだけど、バイクはどうしちゃったんだろう(笑)。

 

――でも大冒険でしたね。

 

なんか、達成感はありましたね。「成し遂げたぞ!」みたいな。

 

初めて出た大会で優勝! そしてプロサーファーに

トロフィーから取り外したプレート。すべて「優勝」
 出典  Funmee!!編集部
トロフィーから取り外したプレート。すべて「優勝」

――川井さんというとコンペティターのイメージがあるのですが、最初に大会に出たのはいつごろですか?

 

サーフィンを始めてけっこうすぐだったと思います。「平凡パンチ」という雑誌と「JUN」という服のメーカーが鴨川でやった大会です。そこで日本人の部で優勝しちゃいました。運動会でも優勝したことがなかっただけに、表彰台に乗ったとたんに火がついちゃいましたね。「勝ちたい」って。

 

――その後もいろいろな大会でたくさん優勝していますね。

 

全日本選手権では第1回大会から3連勝しています。実は最初の全日本選手権の前にも、未公認って言うかサーフィン連盟ができる前の「全日本」があったんです。そこでも優勝しているので、それを含めると4連勝ですか。

 

――全日本選手権の歴史を見ると、クラスは変わっても何度も優勝したり表彰台に上がったりしています。1975年からはプロ部門もできているようですが。

 

そのころになるとプロサーファーと言われる人たちが増えていたので、プロとアマチュアを分けなくちゃならなくなったんでしょうね。いまのようにプロ組織はなかったので立場は違いますが、サーフィンをしてお金をもらうという点ではプロでした。

澄みきった海で気持ちよさそうなライディング
 出典  Funmee!!編集部
澄みきった海で気持ちよさそうなライディング

――川井さんがプロサーファーの第1号だと、うかがっていますが。

 

19歳の時に「マリブサーフボード」を作っていた米沢プラスティックに就職しました。でも鴨川から会社のある築地まで3時間半、4時間もかかるんです。まだまだ上手くなりたかったので、「このままでいいのだろうか」、でも「サーフィンだけしていても食べていけないし」っていう葛藤がありました。そこで会社に相談したところ出社は週1回、サーフィンをしていても給料を出してくれることになったんです。

 

――プロサーファー第1号の誕生ですね。

 

セミプロみたいなものですが、サーフィンで給料をもらってるという意味ではプロですね。大会で勝つための努力もしましたし、鴨川の子どもたちの面倒をみてボードをアピールしたりもしました。その中からけっこう、プロサーファーも生まれました。

(後編に続く)

 

 

■プロフィール

川井幹雄さん

千葉県鴨川市出身。1948年生まれ。プロサーファー、シェイパー、サーフショップ『KAWAI SURF GALLERY』オーナー。第1回全日本選手権で優勝し、以後3連勝。全日本選手権で数え切れないほど表彰台に立つ。1981年日本のプロサーファー組織JPSA(日本プロサーフィン連盟)設立に立ち会い、現在も顧問や大会ディレクターとして関わり続ける。現役コンペティター。

 

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文:眞木健(Ken Maki)

写真:三浦安間(Yasuma Miura)

一部ライディング・その他写真提供:川井幹雄(Mikio Kawai)

2018年8月27日
Funmee!!編集部
Funmee!!編集部

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